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中国世界遺産-周口店の北京原人遺跡


 
周口店の北京原人遺跡 文化遺産(1987年)
      周口店は、市の中心部から南西へ約50キロ、燕山の支脈と河北平原がであう地点に位置する一村落だ。ここで、古くから村人たちに親しまれていたのが、村のそばにある丘陵状の二つの小山であった。彼らは長年、山を拓いて採石し、石灰を焼成してきた。採石のさいには、よく動物化石を発見した。それらの化石は「竜骨」と呼ばれる一種の漢方薬となり、精神安定や鎮静に効能があったとされる。そのため、この二つの小山は人々に「竜骨山」と呼ばれていた。
      1914年、政府農業商業部の招請を受けたスウェーデンの地質学者・アンダーソンは、鉱業顧問として中国にやってきた。周口店に化石が埋没していることを知った彼は、その後、周口店での発掘を決定。21年から23年の間、助手とともに多数の動物化石を発掘し、スウェーデンへ持ち帰っては整理や補修を行った。26年にはついに、持ち帰った化石を整理しているうちに、ヒトの臼歯の化石を発見した。この発見により周口店は一躍、世界の人類学研究者たちの注目の的となったのである。
北京協和医学院の解剖学部主任であったカナダの人類学者・ブラックは27年、周口店から再びヒトの臼歯を発掘し、その新発見の人種を「シナントロプス・ペキネンシス」(中国猿人北京種、北京原人)と命名。これにより、世界の考古学界に「北京原人」の名が知れ渡った。
      寒気がおそった29年12月2日、それは特別な一日となった。大学を卒業したばかりの中国の若き考古学者・裴文中が調査主任を務める発掘グループは、周口店で2年前に発掘された地層をさらに掘り進めていた。午後四時すぎ、予期せぬできごとが発生した。原人のほぼ完全な頭蓋骨化石が、硬い土の中から現れたのだ!

     この頭蓋骨化石の発見は、人々が初めて目にした北京原人の真の様相であった。脳頭蓋は低く平らで、額は後退、眼窩上隆起がいちじるしく発達し、まるでひさしのように突出していた。頭蓋骨は9・7ミリと現代人より2倍ほど厚く、頭蓋容積は約1075ミリリットルと、現代人の平均容積の80%に相当した。また、上下の顎骨の歯槽部は前方へ突出していた。額の垂直線からはるかに突き出していたのである。ほお骨が高く、鼻骨が広く、おとがいの隆起がなく、現代人より歯がやや大きく、複雑な並びであった。その結果、北京原人は「サルからヒトにいたる」過程に位置し、より現代人に近い性質を持つことが明らかになった。
      有名なイギリスの博物学者・ダーウィンや動物学者・ハクスリーによる進化論は、「ヒトはサルから進化した」と断言した。1891年には、オランダの解剖学者・デュボアがインドネシアのジャワ島で、脳頭蓋の形がヒトとサルの中間型である化石人類(ジャワ原人)を発見したが、進化論はまだその地位を確立しえなかった。その後、29年に北京原人の頭蓋骨化石が発見されてから、世界の学者たちはようやく進化論という観点で一致した。こうして周口店は、世界における生物進化論の「里程標」となったのである。
半世紀以上もの間、考古学関係者は周口店の北京原人遺跡で、たえず発掘を続けてきた。彼らは、40余メートルの厚さの灰燼層(灰と燃えさしからなる地層)を注意深く掘り進めた。発掘が堆積層の半分にもみたないうちに、前後して異なる時代の各種化石が埋没している地点7カ所と、「山頂洞人遺跡」を発見。地質時代区分は、鮮新世から更新世まで(今から500万年前〜1万年前)であった。
      現在までに発見されたのは、原人のほぼ完全な頭蓋骨6、頭蓋骨の破片12、下顎骨15、歯157、大腿骨の断片7、脛骨1、上腕骨3、鎖骨1、月状骨1。これら北京原人の化石は、約40体もの老若男女に分類された。 専門家たちは出土した骨格化石を研究分析し、次のような結論を出した。北京原人が生息したのは今から約50万年前で、直立猿人に属する。手足の骨は頭骨より進歩しており、現代人と似ているが、脳頭蓋が低く、前後方向に長いなど頭蓋骨に多くの原始性を残している――など。推定によれば、北京原人の男性の身長は約156センチ、女性の身長は約144センチ。古人類学者によれば、彼らの寿命は短く、その68・2%が14歳以前に死亡。50歳まで生きられたのは、わずか4・5%であった。
      遺跡ではこのほか、97種の化石哺乳類の骨と、1万点に上る石器や石片が出土した。石器の原料は、いずれも遺跡付近から採取された。石器の種類はきわめて多く、早期(40万年前まで)の石器は比較的粗雑で大きい。おもにスクレーパー(削り取る道具)や、敲打器(たたいたり、割ったりする道具)で、敲打器が多かった。中期(40万年前〜30万年前)の石器は小型化し、尖頭器がいちじるしく増加した。晩期(30万年前〜20万年前)の石器はさらに小型化が進み、改良された。道具の種類がより細分化して、彫刻器の数が増えた。石錐は、この時期特有の石器である。
      これら出土した石器からは、周口店の北京原人が採集を「主」に、狩猟を「従」にして、生息していたと判断できる。彼らは、すでに原始的な道具の使用方法を学び、労働にいそしんでいた。それはヒトとサルの根本的な違いである。彼らは猿人(ピテカントロプス)から、現生人類(ホモ・サピエンス)の中間ポイントに位置する原始人類で、その発見は生物学や歴史学、人類進化の研究の上でも、きわめて重要な意義をもつ。
      周口店遺跡の洞穴の中には、さらに5カ所の灰燼層と3カ所の灰の堆積物、焼かれた骨が数多く発見された。灰燼層の厚さは最大で6メートル。そこからは、北京原人が火を利用したばかりか、火種を保存していた事実がうかがえる。火を使い、支配し、その保存方法を学んでいたのは、人類が動物から文明世界に入る重要な「目じるし」である。北京原人遺跡で、火を利用していたという発見は、人類の歴史をさらに数十万年繰り上げたのだ。
      北京原人の化石が出土した「猿人洞」の山頂部近くに「山頂洞」といわれる洞穴がある。1933年に、ここで「山頂洞人」の化石が発見された。35年から、著名な古人類学者・賈蘭坡の指揮により、ここからヒトのかなり完全な頭蓋骨三個と、骨盤、大腿骨などが前後して発見された。さらに25個の石器、磨かれたシカの骨角器、140点以上の装身具類(骨針、穴のあいた貝殻、動物の牙、丸石、骨の彫刻など)、33種の化石哺乳類の骨が出土した。
      山頂洞人が生息したのは、今から2万7000年前である。晩期の現生人類に属し、体質の特徴は、基本的に現代人と同じと考えられている。頭蓋容積は約1300〜1500ミリリットルと、まさに現代人の平均容積の範囲内にあたる。男性の身長は約174センチ、女性の身長は約159センチで、現代人に相当する高さ。研究をへて、山頂洞人は原始的モンゴロイドの特徴をもち、時代はすでに後期旧石器時代に入っていたと考えられる。
      残念なのは、周口店で発掘されたほぼ完全な頭蓋骨六個のうち、37年以前に発掘された5個が行方不明になっていることだ。もともとアメリカの機関であった北京協和医学院に保存されていたが、当時、日本とアメリカの関係が徐々に悪化した。そのため、これらの貴重な化石が日本侵略軍に持ち去られないよう、アメリカへ輸送して、一時保存する計画となった。41年12月8日、太平洋戦争の開戦で、日本軍はただちに北京や天津などにあるアメリカの関係機関を占領。そうした混乱期において、これらの化石が行方不明になったのである。
      幸いだったのは66年、周口店遺跡で、裴文中の指揮により再び発掘が行われたことである。発掘作業は3月15日にスタートし、7月4日に終了したが、その3カ月あまりの作業によって、原人の頭蓋骨破片2個、歯1本、石器173点、火を使用した遺跡、それと数多くの動物化石が発見された。
      興味深いのは、この頭蓋骨破片と、34年、36年にそれぞれ発見された二つの頭蓋骨破片が、一つのほぼ完全な頭蓋骨に組み合わされたこと。それらは、同じヒトの個体に属していた事実を明らかにした。これこそが、中国に現存する唯一の北京原人の頭蓋骨である。それはきわめて貴重であったため、発見後37年がたった2003年9月21日から10月7日まで、周口店北京原人遺跡博物館で、ようやく国内初公開となったのである。