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中国世界遺産-雲岡石窟


 

雲岡石窟 文化遺産(2001年)
      山西省第二の都市・大同市は、北京から西へ約500キロの場所にある。かつては北魏(386〜534年)の都が置かれた町で、悠久の歴史により、ここには豊かな文化が育まれた。大同市の中心から西へ約16キロ、武州山の南麓に位置し、武州川の北岸に続く雲岡石窟は、北魏時代の仏教文化を今に伝える代表的な「経典」であると言えよう。
     雲岡石窟は、北魏の和平元年(460年)にその造営がはじまり、正光年間(524年)に、64年の歳月をかけて完成したとされる。東西約1キロメートルにわたり、山の斜面に洞窟がうがたれている。現存する大小さまざまな石窟と仏龕は合わせて252カ所、石像5万1000体あまり。石窟の面積は約40万平方メートルにのぼり、甘粛省敦煌の莫高窟、甘粛省天水の麦積山石窟、河南省洛陽の竜門石窟と並んで、中国の四大石窟の一つに数えられている。
      中国の彫刻芸術は、すでに北魏時代以前には独自の風格をもっていた。仏教の伝来に伴って造られた雲岡石窟は、当時、ギリシアに代表される西洋文化と、インドに代表される亜大陸文化が、ともに中国の伝統的な彫刻芸術の中に溶け込んだものであった。それは独特の風格を作り出し、多様な文化が結合するプロセスを示したのである。2001年末、雲岡石窟は中国古代の摩崖石刻芸術(天然の岩石や懸崖に経文や仏像などを刻んだ芸術)の偉大な宝庫として、ユネスコの世界文化遺産リストに登録された。石窟の大門をくぐると、目の前は隣接した双窟――第5窟と第6窟であった。石窟の前には、清の順治8年(1651年)に建立された五間四層の木造楼閣がそびえ、朱色に塗られた柱や欄干、黄金色に輝く瑠璃瓦の豪華絢爛たる色彩が、見るものを圧倒するほどであった。
       第5窟の中央には、黄金色を施した釈迦牟尼座像が配されており、その神々しいまでの美しさが、神聖な雰囲気をかもし出していた。座像の高さは17メートル、幅15メートル80センチ。雲岡石窟では最大の彫像である。アーチ型をした門の東側には、菩提樹のレリーフがあった。樹木の下では二人の仏が対座しており、問答を行っているかのように見えた。
      第6窟の中央には、四角二層からなる塔柱(洞窟内の空間の中央に立つ塔のような柱)があり、その上層には四面にわたって仏像が、また上層の四すみにはひさしの張り出した九層の小塔が、それぞれ彫刻されていた。
      第5、第6両窟の仏像は、漢民族の官吏の姿を彷彿させる中国風のいでたちだった。双窟は北魏の孝文帝の時代(在位471〜499年)に造営されたが、当時は皇室内においてさまざまな問題を抱えていたため、皇室や貴族の間に仏教信仰が広まった。人々は石窟を造り、仏像を彫刻することに熱狂し、その規模も技術も芸術性もきわめたのである。
      洞窟内の彫刻は、主な内容が「因果応報」「輪廻転生」であり、とくに第六窟の四壁には、仏や菩薩、羅漢、飛天などの像がびっしりと刻まれていた。天井には三十三天(トウ利天ともいう。須弥山の頂上にある天で、帝釈天はここに住む)の神々が刻まれており、その数の多さには圧倒されるほどだった。
      第6窟では、塔柱の四面と東、南、西の三面の壁の中下部に、数多くの仏教故事のレリーフが施され、仏教の開祖・釈迦牟尼の誕生から入滅までの生涯がいきいきと再現されていた。芸術的な観点から見ると、テーマの選択にしろ、構図にしろ、画面の流れや内容の相互関係がじつに自然に処理されており、当時の芸術家たちの豊かな想像力とすぐれた表現技巧が示されていた。
両窟は雲岡石窟中期の仏像芸術の代表で、仏像の造りや服装の様式には、漢民族の濃厚な影響がうかがえた。その変化は、インド文化と中国文化の結合のシンボルとなっており、中国における仏教芸術がさらに中国化、世俗化したことを物語るものである。
      第5、第6の両窟から東へ進むと、順に第3、第2、第1窟が並んでいた。第1、第2の両窟は、同時期に造られた統一構造の石窟である。石窟の中央にはそれぞれ、レリーフが施された四角形の塔柱が立っており、ここがもともと宗教活動を行う場所だったことがうかがえた。石窟内の仏像の風化は激しいが、第一窟の東西両壁に施された仏教故事と伎楽(仏教音楽)のレリーフは、わりとよく保存されていた。
      第3窟は、雲岡石窟では最大の石窟である。高さ25メートル、幅50メートルで、その壮大なスケールには思わず息をのんだ。未完成の石窟であり、その中には「西方三聖」(阿弥陀仏、観世音菩薩、大勢至菩薩)の彫像がわずかに三尊、配されたのみ。豊満な肉体と、ふっくらとした穏やかな顔立ちがその特徴で、初唐期(7世紀初頭)の工匠たちの手により造られた彫像だという。
      西へ折り返すと、第9、第10、第11、第12、第13の各窟が続いていた。この一群は、後の清代に彩色が施されたため、とくに色合いが鮮明で華麗であるのが特徴だ。人々には「五華洞」と呼ばれて、親しまれている。
      この五つの石窟は、彫刻の芸術的価値が高く、その内容もさまざまであった。北魏時代の歴史や芸術、音楽、舞踊、書道、建築などを研究するための貴重な史料となっている。とりわけ、第13窟にある高さ13メートルの弥勒菩薩像は珍しい造型で、ひじを曲げ手のひらを見せた菩薩像の巨大な腕は、支えがないため、切断される恐れがあった。そこで工匠たちは、うまい具合にひじの下に力士像を彫刻した。こうして、力士が菩薩の腕を支えるという、珍しい造型が生み出されたのである。
      さらに西へ進むと、第16窟から第20窟までが並んでいた。ここは雲岡石窟の精華として、人々に「曇曜の五窟」と称されている。雲岡石窟の早期の仏像群が配された場所である。
      398年、北魏の道武帝・拓跋珪(在位386〜409年)は、その都を盛楽(現在の内蒙古自治区ホリンゲル)から平城(現在の山西省大同市)に移した。武州塞は、ちょうど両都城の間に位置した要衝の地だった。北魏の皇帝たちも何度もここを訪れ、祈祷をしたり、雨ごいをしたりした。
      文成帝の時代(在位452〜465年)になると、勅旨を受けた高僧の曇曜がこの地を選び、摩崖仏を造っては仏教を広めた。史書の記録では、「山石の壁を削り、五所を開窟して、仏像を一尊ずつ彫り、高さは70尺(一尺は約33センチ)、続くは60尺、彫刻のすぐれたること、一世に名高し」と記されている。
      五窟に彫られた五つの主仏像のテーマは、三世仏(過去仏、現在仏、未来仏)と千仏である。同時にそれは、北魏の道武帝、明元帝、太武帝、景穆帝(帝位につかずに崩御した)、石窟寺建立のさいに存命中の文成帝など、5人の皇帝をそれぞれ代表していた。
仏像はいずれも高さが13メートル以上と大きく、とくに主仏像は石窟の中心位置に配された。早期の作品であるため、イメージや服装、髪型などの面で、インドと中央アジア地域の特色が色濃く反映されたのである。
      第16窟の中央に配されたのが釈迦牟尼像だ。仏像は眉目秀麗で、すっきりとした顔立ちだった。第17窟には、菩薩の衣装をまとい、須弥座の上に足を組んで座る弥勒像があった。頭に宝冠をかぶり、身には瓔珞(珠玉などの装身具)と釧(ひじに付けた装身具)をつけていた。いずれも古代インドの仏・菩薩に用いられた典型的な装飾である。
      第18窟の中央にあったのが、袈裟をはおった釈迦牟尼像だ。東壁にはさまざまな造型の諸弟子の像が配されていた。ある者はインドの女性のようにサリー(絹製の衣装)をまとい、ある者は手に果物を捧げもち、またある者は頭に宝冠をかぶっていた……。
      有名な第20窟の前壁と天井は、遼代以前に崩壊してしまった。そのため主仏である釈迦牟尼像がよく知られる「露天大仏」となった。これは、芸術的にも雲岡石窟の代表作である。仏像は、結跏跌座(両足の甲をそれぞれ反対側のももの上にのせて押さえる形の座り方)をしており、高さ13メートル70センチ。胸から上部の石質が硬く、風化が少なかったため、ほぼ完璧な形で保存された。仏像の顔は彫りが深く、鼻筋がスーッと通っていた。また目は大きく、唇は薄く、広い下あごは突き出しており、髪を頭頂部で結わえたヘアスタイルであった。
      巨大な仏像は威厳に満ちており、厚い両肩はまっすぐにのびていた。そのため、左肩から右わき下にかかる袈裟のひだが深く刻まれ、腹部を覆うゆったりとしたひだとは対照的な表現となった。それは、はっきりと異なるひだの形状を、見事なまでに今の世に伝えるのであった。