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徳陽市の概況

四川省徳陽市旌陽区 〜 人口 360万人(市街区 74万人)、 一人当たり GDP 40,000 元

徳陽市はかつて夏商王朝の時代、漢三星堆遺跡(今の四川省 広漢市)に代表される古蜀国を成した重要な拠点都市の一つとして栄えたようである。しかし、周時代の初期、洪水もしくは兵火により、都市は荒廃してしまった、という。周末の春秋戦国時代期には復興し、秦による郡県制施行の際、蜀郡に属した。

三国時代、綿竹出身の学者である「秦?」は、劉璋降伏後の劉備建国の蜀に文官として仕えたが、関羽死後の呉討伐戦に反対し、劉備を懸命にいさめたため、一時、投獄される。その幽閉の地が、ここ徳陽市である。劉備の死後、幽閉が解かれ、諸葛亮により重用される。その後、大司農という地位まで登りつめ、諸葛亮の政治を助けている(226年没)。ここ徳陽市は、彼の功績をたたえて、「秦密村」という地名が今も残る。

唐時代の620年、徳陽県 が新設され、県城が築城される。以後、益州の重要地方都市の一つとしての地位を確固たるものとしたようである。上流にあった 旧綿竹城 廃城後に、これに代わる綿遠江の水運拠点として発展したきたものと推察される。 さて、その徳陽市の 城郭都市 であるが、完全に城壁は取り除かれてしまっていた。残された路地名も少ないー「署前街」「南城根街」など。ただし、城壁内にはたくさんの寺院や廟、祠があったようで、その名前を冠した路地が今でも複数、残る。しかし、すべての廟や祠等の建築物自体は撤去されてしまっていた。関帝廟の敷地跡のみ、わずかに壁のみ残っていた。写真右は、かつて関帝廟前を流れていたであろう、現在、「なぜか」白濁した溝。写真下は、壁跡。この壁は現在、学校の校庭の外壁として使用されており、校庭の内側からみたもの。左側が外側より撮影。

古城内で唯一残されている 徳陽文廟(孔子廟)。南宋時代の1206年に開設された。その後も、幾度も修繕、改築などが施され、現在のものは、清代後期の1800年代前半のものという。

その他の市街地ネタとしては、文廟街と南街との交差点3Fにある焼肉食べ放題店はなかなかよい。また、西街と華山北路との交差点に、「麻辣戦士」という火鍋料理屋を発見した。日本語で言えば、「激辛戦士」といった感じか?なかなかユニークな命名であった!

市内の一番北側の橋「青衣江路」を渡って、西側〜新開発区の東側へわたる直前に、三国時代の蜀の官僚「秦?」の巨大立像を入り口中央に据えた三国志公園「徳陽市北公園:三国芸術文化長廊」がある。これは、北は青衣江西路、南は黄河路に挟まれた川べりの公園で、あちこちに三国志のエピソードを刻んだ石碑や、人物の肖像画の石彫り画像が設置されていた。

「官途の戦い」や「唐卓暗殺」などのエピソード碑もあったが、99%は三国のうち蜀に関するものばかりである。これらの中でも特に、蜀建国後の諸葛亮の北伐、孔明死後の蜀政界、諸葛瞻や諸葛尚らの逸話に関するものが豊富であることが特徴的。蜀政権後期における登場人物らの肖像画も残っていない今、あくまでも想像上での絵図や肖像であろうが、自分のイメージを補完する点で役立つものと言える。諸葛賤、尚父子の立像もあった。

今は、「芸術館」としてのみ機能している建物も、三国志関連の博物館として整備されるとのこと。開館は年内であろう(2014年)。いちおう、楽しみである。

一つ気になったのは、石碑に刻まれている肖像画で、馬超、関羽、関平、周倉に関し、何やら日本の横山光輝著『三国志』の画風を参考にしているような気がした。このような 石の彫刻 は、三国志公園以外でも街の至る所に配置されている。そもそも、徳陽市は石碑や石像を作ることが街自慢となっているようで、街中にいろいろモニュメントがある。他の中国の都市にはない、遊び心を感じさせる雰囲気がある。街中のごみ箱も周囲に同化するようにデザインされており、時には「木の根っこ」の形、時には中国の伝統的家屋風の柱に模したものなどがある。街全体的にもきれいな環境作りが心がけられていた。

特に、歴史都市を前面に打ち出そうとする市政府の取り組みがよく伺える街であった。市内、郊外それぞれの名所を路傍の石碑、博物館、その他の観光地内で何回も何回も広報していた。伝統的家屋の復元による歴史風情通りみたいなところもきれいに整備されていた。これは、徳陽市全体に言えることで、綿竹、孝徳などなどの郊外地区でも、同様の復元建築群による街道整備が施されていた。また、徳陽市内の路線バスは、各主要な停留所に地図入りで路線が表示されており、観光客にも利用しやすい工夫がなされていた。

徳陽市はかつて夏商王朝の時代、漢三星堆遺跡(今の四川省 広漢市)に代表される古蜀国を成した重要な拠点都市の一つとして栄えたようである。しかし、周時代の初期、洪水もしくは兵火により、都市は荒廃してしまった、という。周末の春秋戦国時代期には復興し、秦による郡県制施行の際、蜀郡に属した。

三国時代、綿竹出身の学者である「秦?」は、劉璋降伏後の劉備建国の蜀に文官として仕えたが、関羽死後の呉討伐戦に反対し、劉備を懸命にいさめたため、一時、投獄される。その幽閉の地が、ここ徳陽市である。劉備の死後、幽閉が解かれ、諸葛亮により重用される。その後、大司農という地位まで登りつめ、諸葛亮の政治を助けている(226年没)。ここ徳陽市は、彼の功績をたたえて、「秦密村」という地名が今も残る。

唐時代の620年、徳陽県 が新設され、県城が築城される。以後、益州の重要地方都市の一つとしての地位を確固たるものとしたようである。上流にあった 旧綿竹城 廃城後に、これに代わる綿遠江の水運拠点として発展したきたものと推察される。

徳陽観光
徳陽市は四川盆地の西北部に位置している。
長江上流の支流・沱江流域にあり、東北には綿陽市、東南には遂寧市と資陽市、西南には省都・成都市、西にはアバ州が接している。省都・成都までは50kmあまり、成都付近の観光の目的地であり中継点である。西北部には九頂山脈の険しい高山がそびえ、中部には平原が広がり、東南部は丘陵地となっている。亜熱帯気候に属し、四季の区別ははっきりとし、雨量は多く、年降雨量は1,000mm前後に達している。年平均気温は15.7-16.7℃。

広漢三星堆遺跡
中国5000年の歴史の証明である長江文明の源と讃えられる三星堆遺跡は中国南西地方で面積が最も広く2000年の歴史を持ち、今なお現存している古城・古蜀文化遺跡で、1929年に発見されてから50年代に発掘が始まり1963年にかつての三国時代の蜀国の城であることが認められた。この遺跡は四川省広漢市から西に11qほど離れた三星村にあり、南に38qで成都、北に26qで徳陽市と都市に囲まれている。青銅時代の遺跡として博物館も建てられ、出土した農具や生活用品、玉器、陶器とそれぞれの製造場や古い城壁、住宅の遺跡は蜀国の都市であったことを証明しており、中国古代の五大商業都市の一つに数えられている。

 

徳陽市地図

徳陽市観光スポット

三星堆遺跡 | 徳陽文廟


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


 



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